平塚競輪場(神奈川県)
1950(昭25)年〜

天下分け目の関が原の戦いに勝利した徳川家康が江戸に幕府を開いた

そして
江戸と地方を結ぶ五街道を制定・整備した
その一つが
日本橋(江戸)から三条大橋(京都)までの約125里(500Km)
今では新幹線で2時間20分で結ばれているが
江戸時代には飛脚で7日
一般人で2週間
大名行列で3週間
旦那衆や女性で約一ヶ月かかった道のりだ

そこを
東海道53次と呼び
53の宿場を設定した


その一つ、
平塚宿は次の大磯宿まで27町(約3km)しかなく
素通りして大磯宿まで行こうとする旅人も多かったので宿場町としては
あまり栄えなかったという


昭和初期になって
交通の便の良いこの地
第二海軍火薬廠の他、日本国際航空工業・横須賀海軍工廠平塚分工場・第二海軍航空廠など
大規模な軍需工場が集中し、軍事都市として発展するようになった

結果1945(昭20)年
米軍の
空襲にて1,162tもの焼夷弾が投下され
市域の60%近くが
破壊される結果となった



戦後復興の一環とし
横須賀海軍工廠平塚分工場跡地周辺に
競輪施設を開設し
1950(昭25)年:
市営平塚競輪が開催された



<昭和49年度・神奈川県六市競輪組合主催・連勝複式車券>




現在は湘南バンクという愛称で、多くの若者ファンも増やしている



神奈川県平塚市久領堤